主要テーマの概要

1. 脳機能に対する栄養素・食品成分の役割とその作用メカニズムの解明

脳機能に対する栄養素・食品成分の役割とその作用機構の脳栄養学的解明

脳機能に対する栄養素・食品成分の役割をマウス行動解析、イメージング、生化学・分子生物学的解析、理論解析など様々なアプローチで解析し、その作用機構を個体・神経回路・ニューロン・分子レベルで解明します(上図)。現在までに、ビタミンA、ビタミンB1、トリプトファン、マグネシウム、乳酸菌等の記憶制御に対する役割を解析してきました。現在までの成果として、ビタミンAの受容体のコンディショナル変異マウスを用いて、ビタミンAは記憶能力を正に制御することを明らかにしました。一方、ビタミンB1欠乏を経験したマウスは、ヒトのB1欠乏によるウエルニッケコルサコフ症候群と同様に不可逆的な記憶障害を示し、この原因が海馬の神経変性であることを初めて明らかにしました。さらに、様々な栄養成分が不足すると脳に炎症(脳内炎症)が起こり、脳機能、特に、記憶機能に障害が起こることも突き止めています。今後も、栄養化学と脳科学の融合、すなわち、「脳栄養学」を通して、脳のパフォーマンスを良くする「食」を探求します。

2. 食行動の認知調節機構の解明

食行動は「代謝制御」と「認知制御」の制御を受けています。代謝制御とは生得的なシステムで、栄養要求性に応じた食物量を過不足なく摂取させる役割を果たしています。一方、認知制御は後天的な制御システムであって、例えば、デザートの別腹や、ストレスによって多く食べてしまうのは認知制御の存在が背景にあります。我々にとって、この認知制御が大きく関わる食習慣は生活習慣病などの環境要因であり、精神疾患や認知症においても環境要因の一つとして考えられています。しかし、我々の食習慣、そして健康に強い影響を及ぼす認知制御機構の生物学的解明は進んでいません。
この食認知行動制御は食経験(食記憶)に基づいて決定される食物の価値(好き嫌いや嗜好性の度合い)によってコントロールされます。重要なことに、この食物価値は生得的、永続的なものではなく、食経験、環境、加齢により刻々と変化します。そこで、我々は、食物を記憶するエングラム(記憶貯蔵細胞)の視点から、食物価値を決定し、変化させる機構の脳科学的解明を試みます。最終目標は、疾患リスクの高い食習慣を改善する方法を開発することです。体に必要な食品を美味しく食べて健康を保つ、このような食生活を送る方法を開発したいと考えています。

3. 記憶制御基盤の解明

3-1) 記憶固定化制御機構の解明

記憶は脳に保持される時間でせいぜい数時間程度の短期記憶と最大一生続く長期記憶に分けられます。安定な長期記憶として記憶を保存するには「記憶固定化」のプロセスが必要です。これまでに、マウス遺伝学的手法を用いて、遺伝子発現制御の観点から、記憶固定化に転写調節因子CREBと、その上流のリン酸化酵素であるCaMKIVなどが必要であることを解明してきました。その過程でCREB活性化型変異体やCaMKIVを発現させた「スマート(頭の良い)マウス」の開発に成功しました。

3-2) 想起後の記憶制御基盤の解明

記憶は思い出(想起)されると「不安定化」のプロセスを経て、形成直後と同様な不安定な状態に戻り、さらに、安定に再貯蔵されるためには、「再固定化」のプロセスが必要とされることが近年明らかになりました。しかし、再固定化は不思議な現象であり、「なぜ、記憶を想起すると、わざわざ再固定化されなければいけないのか?」、「再固定化の意義は何であるのか?」、「記憶は思い出されると必ず再固定化されるのか?」といった素朴な疑問が湧き上がります。そこで、我々は、これらの疑問に答えるために、様々な実験を行いました。その結果、不安定化は情報伝達経路の活性化を必要とするアクティブなプロセスであること、また、記憶が思い出されても、必ず再固定化が誘導されるわけではなく、想起する時間の長さ、記憶の強さや古さによって不安定化と再固定化が誘導される条件があることを発見してきました。さらに、恐怖記憶を思い出すだけで、再固定化を経て恐怖記憶が強くなることも明らかにしました(PTSDモデル)。これらの研究成果から、再固定化は記憶をアップデートする、すなわち、既存の記憶に新しい情報を付け加えるためのプロセスであることが示唆されています。

 一方、恐怖体験の記憶、すなわち、恐怖記憶の実態は恐怖条件づけ記憶です。恐怖記憶を思い出すと再固定化を経て恐怖記憶は維持されたり、強くなったりします。一方で、恐怖記憶が長く思い出されると、恐怖が減弱する「消去」が誘導されます。このように、恐怖記憶を思い出すと、恐怖記憶を正負に調節する「再固定化」と「消去」が誘導されるので、「再固定化」と「消去」の関係性の解明を進めてきました。現在までに、「再固定化」と「消去」は独立したプロセスではなく、「再固定化」から「消去」へと記憶プロセスの切り替えを行う「スイッチ」が存在することを明らかにしつつあります。このスイッチの存在とその制御機構を回路・細胞・分子レベルで明らかにすることで、脳内において環境変化(危険 or安全)に応じて行動適応を決定する制御基盤が解明できると考えています。

3-3) 記憶想起機構の解明

記憶を思い出すこと(想起)は記憶することと同等に我々の日常生活にとって重要なことです。しかし、「記憶する」メカニズムの解明に比べると、「思い出す」メカニズムの解明はずっと遅れています。一方、夕方にヒトの認知機能が悪くなると古くから言われていることから、我々は体内時計と記憶能力の関係性の解明を試みてきました。その結果、時計遺伝子BMAL1のコンディショナル変異マウスの解析から、体内時計が記憶の想起に必要であること、野生型マウスにおいても夕方の時間帯に想起パフォーマンスが低下すること、体内時計による想起制御にドーパミンとcAMP情報伝達経路が重要であることなどを明らかにしました。cAMP情報伝達経路を調節することで「記憶想起力」をコントロールすることも可能です。このような研究成果に基づいて、想起パフォーマンスを向上させる栄養素・食品成分・薬剤を発見し、認知症や加齢後の認知機能低下の改善を試みます。

4. 精神疾患治療方法の開発

精神疾患のほとんどはその脳内の病態と発症メカニズムが不明です。心的外傷後ストレス障害(Post traumatic stress disorder; PTSD)はトラウマ(恐怖)記憶を原因とする精神疾患です。そこで、恐怖記憶の制御プロセスの破綻がPTSD発症に関わると考えられています。現時点で、有効なPTSDの治療方法は認知行動療法であり、恐怖記憶消去が生物学的基盤と考えられる「曝露エクスポージャー療法」ですが、治療は長期間にわたり、医師と患者の双方に負担の大きいことが難点です。以上の背景から、PTSDの治療方法開発に向けて、PTSD発症のメカニズムの解明と、恐怖記憶再固定化、消去、忘却などを標的としたPTSDの治療方法の開発を試みています。
試行錯誤を重ね、現在までに、PTSD改善に対する恐怖記憶の忘却促進の有用性を提言してきました。脳の海馬では神経新生(新しい神経細胞の産生)が起こっており、神経新生を促進することで記憶の忘却が起こることが明らかにされており、この忘却効果を利用した方法です。興味深いことに、海馬神経新生は「エクササイズ(運動)」でも促進されます。一方で、神経新生によって産生された「若い神経細胞」の記憶能力は高いことから、神経新生促進により記憶のターンオーバーが早くなると考えています。今後も、栄養学的アプローチも含め、より体に優しいPTSD治療方法の開発を目指します。